 |
|
| ■ 研究室日誌 過去の日誌へのリンクは最下段に |
■お世話になりました
−3月22日− |
今日はまず郵便局へ行って、退職の挨拶状などを料金別納で発送しました。10時40分から最後の教授会。ご挨拶をさせていただきました。午後は退職辞令交付、記念撮影…と一連の儀式が続きました。そのあと、このHPの改訂作業。明日以降も、最終の荷物詰めがあり、25日には修了生の安部さんが訪問してくれます。26日に段ボールなどを1階の合同研究室に運び終え、28日には研究室明け渡し、身分証明書、鍵などの返還という段取りになります。 |
|
|
■研究室日誌
−3月20日− |
新しい職場では、個人ごとのホームページを大学のそれにぶらさげるというのも難しそうなので、これを機にこの「研究室日誌」も潔く閉店するつもりでいました。もともとは自分の「存在証明」のために作ったもので、外部への情報発信はあまり意識してなかったのですが、「やめる」と関係者に通知したところ、意外にも「続けろ」という励ましの声がたくさん届いたので続行することにしました。「嘱託講師のページ」経由で外部にリンクするかたちになります。 |
|
|
■送り、送られ…
−3月18日− |
学位授与式が終わると、それを待っていたかのように雲が出て正午ごろからはポツリポツリ。退職者紹介とかで今回は檀上に座らされたあおりで略礼服を着てきたので、早々に家にもどって午後は少しリラックスしました。夕方雨はそこそこの降りになりました。17時に太田先生の迎えの車に乗って修了記念パーティ会場のランカスターへ。小欄は「送り送られる」という簿妙な立場でした。寄せ書きと記念品とありがたい送別の言葉をいっぱいいただきました。 |
|
|
■撤退作業最終段階
−3月17日− |
2月下旬から撤退作業の最終段階に入りました。研究室貸し出し書籍は昨秋早々と図書館に返納するなどして、かなり早め早めに作戦を開始していたのですが、やはりいざとなるとさほど余裕もありません。荷物の大半を占める本は、これはボンボンと箱に放り込めばいいので楽なのですが、案外手間どったのがDVD、プリンタのインク、文房具、飾り物などの小物類。それもようやく仮収納して段ボールの数がほぼ確定しました。部屋が淋しくなりました。 |
|
|
■十大ニュースI
*関西福祉科学大学へ
−3月16日− |
国立大と私大の定年が65歳に収斂してきた結果、昨今は「国立大の定年後は私大へ」というパターンが難しくなってきました。そんななかで、新学部設置という特別な条件はあったものの再就職のご縁に恵まれたのは非常にありがたいことと思っています。担当は懐かしや社会科教育(笑)。久しぶりに学部生相手の授業です。通えないので馴染のある西宮に賃貸を借りました。部屋の西の窓から六甲山が見えます。青春時代をすごした阪神間にもどれることが、これまた非常な喜びです。苦労も多いでしょうが、ファイトも湧いてきます。 |
|
|
■十大ニュースH
*アロハ
−3月14日− |
のべにすると100ヵ国以上を旅してきただけに、かねてから「ハワイへ行くようになったらオシマイだ」とうそぶいてきました。その小欄が立て続けに8回も彼の地を訪れることになるとは…。きっかけは、ホノルル日本人学校(レインボー学園)への出張。その後の7回も同校とハワイ大学を訪問する以外は観光らしい観光はしていないのですが、テレビでハワイ関連の旅番組をよく見るようになったこともあって、古き良きハワイの伝統文化に関心をもつようになりました。一部の印象だけで全体を判断してはよくないと改めて反省しています。 |
|
|
■十大ニュースG
*大学院ガイドブック
−3月12日− |
教委や私学訪問の際に配布する『大学院ガイドブック』を制作したのも大きな思い出です。中学生のころから新聞部で鍛えられ、就職してからも『1年のあゆみ』『PTA広報』などの企画・編集に携わってきた経験からして、当時の本学のガイドブックは絶望的なまでに貧弱な誌面でした。お役所的告知と専門用語のオンパレード。そこで一念発起、村田理事の支援もあって、ワードの限られた技能をフル活用して2009と2010の2冊をほとんど自力で作成。それがきっかけとなったのかその後専門業者に任せるようになり、私学にはまだ及びませんが、いまではカラフルでお洒落なガイドブックに様変わりしています。
|
|
|
■十大ニュースF
*学長補佐
−3月10日− |
教育委員会や私立大学のキャリアセンターなどをまわって、本学大学院のPRに努めるという、真っ当な研究者ならもっとも嫌がる営業的業務が、幸か不幸か小欄には似合っていて、18年1月に広報担当学長補佐に任ぜられてからは北海道から沖縄まで東奔西走しました。栃木から沖縄まで17の都県教委を実質7日で「踏破」したのが最高記録です。時刻表とにらめっこの旅程作成でしたから「火曜サスペンス劇場」と自虐的に名付けていました。しかしこの行脚のおかげで、教委や私学の裏話や苦労話などに接することもでき、各地の修了生と酒を酌み交わし温泉を楽しむという副産物もありました。
|
|
|
■十大ニュースE
*八重山研修
−3月9日− |
社会系から総合に移ったため、学部の授業は4年生必修の「総合演習」だけになりました。後継の「教職実践演習」とは異なり、この授業はかなり自由な内容展開が可能でした。当初6年間、小欄のグループは石垣島、西表島での2泊3日の体験学習に出かけました。院生有志も含めて25人ほどの学生を連れていくのはそれなりの苦労もありましたが、参加者からは大好評で、2月末の発表会には、こちらも感動してしまうような力作がずらり。「鳴教で一番印象に残った授業」との声もありました。即戦力重視とかで模擬授業や指導案づくりに明け暮れる昨今の教員養成教育には一抹の淋しさを禁じ得ません。
|
|
|
■十大ニュースD
*「総合」
−3月7日− |
大学院に総合学習開発コース(現在の現代教育課題総合コース)が設置されたのは平成13年4月ですが、開設準備は11年11月にスタートしていました。毎週金曜日の6時間目に学長室に集まり、入試、教育課程、人事などを話し合いました。当時のメンバーは小欄のほか、転退職した西村、山崎、木村、そして村川(教職大学院)、近森(国際)のいずれ劣らぬツワモノ揃い。指導要領が変わったぐらいではビクともしない骨のあるコースをということで、英文名は「総合学習のための基礎人間科学」としベースに教育人間学を据えました。教科枠組みに捕われない自由な発想のコースがこうして産声をあげました。 |
|
|
■十大ニュースC
*教科書づくり
−3月6日− |
東京書籍の小学校社会科教科書に関わるようになったのは平成元年度本からです。8年度本からは編集委員として改訂のたびに月2回程度上京して遅くまで会議をしていました。会議は18時すぎの夕食に始まり約3時間半。自信をもって持参した原稿がズタズタにされることも珍しくありませんでした。一方で取材旅行は楽しいものでした。姫路、日田、豊田、茅野、庄内平野…。2週間ほど間をおいて帯広と西表島へ出かけた時には日本列島の広さを実感しました。その印象をもとに仕上げた17年度本の国土単元は、沖縄と北海道の共通点をベースにした画期的な構成で今でも最高の誌面だと思っています。 |
|
|
■十大ニュースB
*華やかだった時代
−3月4日− |
「提案する社会科」論が広まるにつれて、小欄にも各種の雑誌からの寄稿依頼が舞い込むようになり、また出版社主催のイベント的研究会に顔を出すことも多く、それにつれて、各都道府県、市町村の研究会講師として招聘されることも増えてきました。平成10年ごろがそのピークだったように思われます。とくに明治図書の「21世紀の社会科を語る会」では、文部省関係者や著名な社会科研究者とシンポジウムでいつも同席させていただき、各地に出かけては名物料理に美味い酒…という贅沢三昧をしていました。あの年代に哲学書の1冊でも読んでおけば…という反省もありますが、しかしまあ、あれも人生!。 |
|
|
■地球33番地
−3月3日− |
北緯33度33分33秒、東経133度33分33秒。こんな愉快な地点があるのだからもっと売り出したらどうだ…と小欄が高知新聞の投書欄に書いたのがきっかけで、あれよあれよと大騒ぎになり、NTT高知支店や高知JCなどもかけつけて平成3年3月3日午後3時33分に「33フェスティバル」をやったのですが、このイベントも今年で第26回だそうです。ウォークラリーをはじめ数々の行事があるようです。5年後の平成33年3月3日にはぜひとも参加したいものです。 |
|
|
■十大ニュースA
*旅
−3月2日− |
飲む打つ買うの趣味のない小欄が唯一お金をかけたのが海外旅行でした。もちろん「教材研究だ」という立派な名目があり、それはある程度事実でしたが。研修旅行を企画し添乗員気取りで学生をあちこちを案内したのもいい思い出ですが、一人でアフリカまで出かけたのも貴重な経験です。貴重と言えば文部省の派遣調査。普通は欧米に行くのに、このへそ曲がり屋さんが選んだ調査地はイスラエル。これを含めて都合4回彼の国へは出かけましたが、人間・文化・歴史などを深く考えさせられることも少なくありませんでした。借金してでもいいから若いうちに海外に出かけなさいと学生には遺言したいですね。 |
|
|
■十大ニュース@
*提案する社会科
−3月1日− |
消火栓の設置場所をみんなで決めるっていう勉強もおもしろいんじゃないかな…。世に言う「提案する社会科」は、高知市内での授業研究会でのまったくの思い付き発言から生まれました。それは、「どんな知識をいつどうやって身に付けさせるか」をいわば盤石の大前提としていた授業研究の世界とはまったく無縁の異端児でした。それゆえいわれなき非難も少なくありませんでした。その喧噪の中からなんとなく体系のようなものが現れてきたというのが実態で、最初から「理論」などという立派なものはありませんでした。昨今、シティズンシップ教育だの知識の活用だの有権者教育だのという声を聴くにつけ、隔世の感があります。冥途に持って行く土産と言えば、まず「提案」でしょうね、 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|